Atriaの気ままブログ

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「お兄ちゃんはおしまい!」を見て、これからのアニメの多様性について色々と考えてしまった

 皆さんこんにちは、アトリアです。

 

 2023年春アニメの情報が公開され始め、2022年冬アニメも放送終了が近づいてきましたね〜

 私は、実は今期のアニメ、今回の記事で取り上げる「お兄ちゃんはおしまい!」しか見ておりません。

 

(出典:https://anime.nicovideo.jp/detail/onimai/index.html

 

 と言いますのも、忙しくて買っただけで積んでいたゲームソフトや書籍の消化で立て込んでいて、また、アニメに関しても3月24日に公開される劇場版のグリッドマンユニバースに向けて、SSSS.GRIDMANSSSS.DYNAZENONを復習していたら、もう春休みが終盤に差し掛かってしまっていたわけでございます。

 

 そんなこんなで唯一今期見ている「お兄ちゃんはおしまい!」(長いので以下「おにまい」)ですが、かなり(あえて過激な表現にすると)イカれたアニメになっています。(でもそれがいい!)

 

 最初は作画が好みだったので見始めたのですが、まず最初の展開からぶっ飛んでいます。

引きこもりのダメニートな緒山まひろは、ある日目覚めると“女の子”になっていた!? 鏡に映る美少女が自分だと分からず混乱するまひろのもとに、飛び級で大学に入学した天才科学者である妹・緒山みはりが現れ、飲み物に怪しげな薬を盛られていたことが判明する…! 

(引用元:https://onimai.jp/story/

onimai.jp

 ストーリーからしかなり刺激的かつファンタジーな展開になっています。

 

 引きこもりのダメニートである兄が賢い妹に一服盛られ、不思議な薬の効果によって女体化してしまいます。そして、妹はその薬の治験を手伝ってもらうという形で女になった兄を働かせて社会復帰させようとします。一方、女体化したお兄ちゃんは中学生女子として生活していく中で新たな人生を歩み始める…という感じのストーリーです。

 

 こういう、登場人物が性転換する物語をTSF(transsexual fiction, 性転換フィクション)というらしく、一定の支持を得ているジャンルのようです。(全然知らんかった)

ja.m.wikipedia.org

 

 まず女体化する薬って何やねん、という心の中のツッコミからこの物語は幕を開けますが、それはファンタジーなので問題ありませんね。(白目)

 

 しかし、TSFというジャンルが一定の支持を得る理由としては、やはり男にとって、確かに女性の体って未知なもので、興味を引くもの、一回体験してみたいものなのかもしれません。(別にやらしい意味とかではなく)

 

 劇中で展開されるのは女の子あるある(?)なトイレ事情、生理、胸、化粧、おしゃれ…など、女性になった際に生じうる、男性との違いに関する戸惑いが描かれています。(下のネタが多いこと多いこと)

 

 下の話がかなり多いものの、その中で描かれる、女の子になったことに戸惑いながらも頑張るまひろと大好きな兄を社会復帰させようと奮闘するみはりの兄弟愛(姉妹愛?)がとても微笑ましい。こういう、ダメだったり引っ込み思案だったりする主人公が周りの人たちの働きかけによって成長していくストーリが大好物(ご注文はうさぎですか?「色づく世界の明日から」が大好き)なので、アニメの7話くらいまではかなり楽しく視聴していました。

 

 それ以降の話は、日常系・百合系コメディーにシフトしており、「あれ?TSFは?」と思ってしまうほどまひろが女の子してて一周回って面白いです。しかし、後半に行くにつれてまひろは中学校の同級生との絡みが増えるため、序盤の姉妹愛がだんだん見れなくなっていくのには少し寂しさを感じています。

 

 先ほどはファンタジーで片付けてしまいましたが、もし性転換できる薬(女性になれるだけでなく、男性になれる薬もあれば面白そう)が本当に開発されたのならば、(生物学的な)2つの性(sex)についてお互いにより深く理解し合うことができるかもしれません。高いお金を払ってリスクのある性転換手術も受けなくて良くなりますし、様々な(社会的な)性(gender)を持つ人たちにとっては生きやすい世の中になるのかもしれません。

 

 そういう視点で見れば、夢のある話と理解することもできるのでしょうか?(かなり無理やりですが…)

 

 しかし、このアニメは別にそういう高尚なものを掲げているのではなく、LGBTQのような性の多様性が叫ばれる今日の世論とは逆行するようなストーリが展開されています。

 

 かなり知名度が高くなった用語なので知らない方はいないとは思いますが、一応説明するとLGBTQとは以下の意味です。

LGBTQとは、Lesbianレズビアン=女性同性愛者)、Gay(ゲイ=男性同性愛者)、Bisexualバイセクシャル両性愛者)、Transgenderトランスジェンダー=心と体の性が異なる人)、Queer/Questioningクィアまたはクエスチョニング=性的指向性自認が定まらない人)の頭文字をつなげた略語で、いわゆる性的少数者セクシュアルマイノリティ)の総称です。

(引用元:LGBTQ│初めてでもわかりやすい用語集│SMBC日興証券

www.smbcnikko.co.jp

 

 このアニメでは徹底的に、2010年代の、もしかしたら2000年代の、まだアニメがサブカルチャーの象徴とされていたころの深夜アニメのようなノリが延々と繰り広げられます。(まあ、それがたまらないのですが)

 それはおにまいのOP映像と主題歌に最もよく表れていると思います。

 


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 曲のリズムや歌詞といい、何の意味もなくOP映像でとりあえずキャラクターに水着を着させているところといい、何か一昔前のアニメを思い出させてくれます。映像が絶妙に曲のリズムとマッチしていて、可愛い作画が相まってむちゃくちゃ好きです。

 

 本編でも、キャラクタの作画はとても綺麗で、ヌルヌル動きます。キャラクターそれぞれも、わかりやすくキャラ付けされていますが、それぞれ際立っており、みんないい子で、誰一人として蚊帳の外になっていないのがいいですね。

 

↓「アイデン貞貞メルトダウン」のMVの方のコメント欄でも「一昔前のアニメを思い出す」というようなことを書いている方が何人もいらっしゃいました。


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 この曲、中毒性がすごく高く、アニソンとしての完成度はピカイチです。最近のアニソンの中ではダントツで好きです。

 

 初めてこのOPを見た時、何とも言えない、実家に帰ってきたような安心感があり、この感じは「らき⭐︎すた」のもってけ!セーラーふくであったり、「這い寄れ!ニャル子さん」の恋は渾沌の隷也であったり、「涼宮ハルヒの憂鬱」のハレ晴レユカイであったり、「ご注文はうさぎですか?」の「Daydream cafe」であったり…

 


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 こういうTHEアニソン的な感じの曲と近い雰囲気を「アイデン貞貞メルトダウン」には感じます。(もちろんあちら側もそのつもりで製作しているのでしょうが…)

 

 しかし、このような曲を主題歌にしているアニメを最近あまり見なくなりましたね〜(自分が見てないだけかもしれませんが…)そういう意味で、おにまいは日本のサブカルチャーとしてのアニメの流れを汲んでいるように感じます。

 

 対して、最近のアニメは、作中のノリやOP、主題歌が(サブカルチャーとしてのアニメと比較して)真面目なつくりである印象を受け、こちらはどちらかといえば、ドラマやジブリなどに代表されるアニメーション作品の流れを汲んでいるような気がします。

 

 前者はもちろんディープなアニメオタクに向けた作品であり、一般ウケはしませんが、いわゆる三角ピラミッドの頂点にいる人たち(下の図で言うところの熱狂・コアユーザー)に向けたものになります。

(出典:https://note.com/yuya_takada/n/nfe23217b45af

 

 一方、後者はピラミッドの下にいるライトユーザーやヘビーユーザーに向けて制作されています。そのためより大衆に向けた作品になります。

 

 注意して欲しいのは、このピラミッドは上にいるほど優位性があると言った意味合いではなく、むしろ、人数は減っていくが、そのコンテンツに費やす時間や金銭が増加する、という意味合いであるということです。

 

 その市場を廃らせない、むしろ拡大していくためには、ピラミッド全員に満遍なくコンテンツを届けつつ、外部から新規ユーザーを呼び込んでくる必要があります。

 

 人数は少ないけれど時間や金銭を費やしてくれるコアユーザーにのみコンテンツを届けているだけでは市場規模が縮小していき、廃れていく可能性があり、逆にライトユーザーにのみコンテンツを提供していてはいつまで経ってもそのユーザはコアユーザーになっていかず、市場に金銭が流れ込んでこないため、これはこれで廃れていく可能性があるのです。

 

 そういう視点で、おにまいの現在のアニメ市場における立ち位置を振り返ってみると、これはコアユーザーに向けたコンテンツであると理解できます。

 

 近年、日本のアニメ市場は急速に拡大し、かつてサブカルチャの象徴であったアニメは、いまやドラマや映画に肩を並べ、多くの人が当たり前のように見るコンテンツとなり、またその作品数も昔に比べて増加しています。また、現在のアニメはおそらくほとんどの人がPrime VideoやNetflixに代表されるサブスクリプションサービスで視聴しており、DVDやBlu-ray(俗に言う「円盤」)を購入する人は少数派であると思います。

 

 こう言った現状は円盤の売り上げの減少に顕著に表れています。

www.koenote.info

 

 上記の記事では、〈もっと具体的に言えば、最上位のアニメの売上は変わらない。むしろ増加している感じすらある。しかし、中層から下層のアニメのBDDVDは本当に売れなくなっている。(引用元:https://www.koenote.info/entry/2018-09-29-172107と書かれています。

 

 最上位のアニメというのは、話題性があって人気であったアニメである、というのはいうまでもありません。そういう意味では、いかに間口を広くして視聴者を増やすかが(ビジネスとしてのアニメ制作にとって)大事なのではないかと感じます。

 

 アニメの作品数が多い(=競合する相手が多い)現在のアニメ市場では、振り切った展開、魅力的なキャラクターやストーリーを描いて話題性を確保し、母体数の多いライトユーザーに視聴してもらうことで視聴者を増やす。そして円盤を積極的に買ってくれるアニメオタクに加えて、作品に魅了されたライトユーザーにも円盤を購入してもらうことが重要なのだと思います。それを成し遂げたのがリコリコ(リコリス・リコイル)だったのだと今更ながら思います。

www.oricon.co.jp

 

 〈最近の声優はもう1,000枚売れるアニメに出れれば十分すごいと言ってもいい。〉(引用元:https://www.koenote.info/entry/2018-09-29-172107と書かれていることからも、この時代に2.1万枚も売り上げたリコリコは大成功と言えるでしょう。

 

 そんなアニメ市場の中で、しかもリコリコという成功したモデルの後で、振り切った展開、魅力的なキャラクターやストーリーを描いて話題性を確保しているものの、母体数の多いライトユーザに視聴してもらう気があまりないおにまい(実はあるのかもしれないが、流石にライトユーザーにはきつくないか?)というアニメは、現在のアニメ市場においてはかなり尖った作品であると受け取ることができます。

 

 先ほど書いた性の多様性(LGBTQ)について、おにまいの製作陣はおそらく考慮していないわけではなく、あえて考慮せず、生物学的な性(sex)に焦点を当ててストーリを描いているのだと思います(多分)。また、ポリコレ(ポリティカル・コレクトレス)などもないもののように、キャラクタを魅力的に物語の中で生き生きと描いているのだと思います。

 

 ちなみにポリコレとは、以下のような意味で用いられます。

ポリティカルコレクトネスは英語では「Political Correctness」と書き、「PC」や「ポリコレ」とも略されます。一般的には「非差別的な言葉づかい」という意味があります。

 

1980年代頃のアメリカで生まれた言葉で、偏見や差別に起因した表現や認識を改めるための概念を指します。とくに人種や性別、文化、年齢、職業の多様性を認め、中立的な表現や用語を用いらなければならないとしています。

(引用元:https://jp.indeed.com/career-advice/career-development/political-correctness

ja.m.wikipedia.org

 

 令和の世の中で、きっとこの作品を見た人の中には、不快感を感じたり、怒りを感じたりする人たちがいるかもしれません。もちろんそれは一つの正しさであり、私はそれをここで否定する気はありません。それでも、だんだんと表現の自由というものが形骸化している今の世の中で、これだけの(いい意味での)問題作を作り上げた製作陣の英断には素直に拍手を送りたいと思います。(いわば、表現の自由の規制に対するアンチテーゼですね。)

 

 日本のアニメ文化の、サブカルチャーとしての側面を受け継いで制作されたこの作品は、令和の日本のアニメ文化に(良くも悪くも)大きな影響を与えた作品だと思います。(実際、初めて見た時、「え?ここまでやっていいのか?」と不安になりました…笑)

 

 これからの日本のアニメシーンでは、こういう作品はメインストリームではなく、オルタナティブなものとして扱われていくのでしょうが、ぜひ未来にもこういうものを残していって欲しいですね。

 

 心に留めておいて欲しいのは、決して性の多様性やポリコレを否定するつもりではないということです。あくまで、コンテンツ制作において、作品自体はそのような思想から解放してもいいのではないか、それに過剰に気を取られて、本来であればもっと良い作品にできたかもしれないものを無碍にしてしまうのは違うのではないか、という主張です。それは過激なポリコレ思想の影響を受けている現在のゲーム作品でも同じことが言えると思います。ある思想も、度が過ぎれば、今度は異なる人が差別の対象となり得ます。性の多様性やポリコレを尊重しつつも、場合によって使い分ける寛容さも必要なのではないでしょうか?

 

 …なにか随分話が大きなものになってしまいましたが、とにかく言いたいことは、「お兄ちゃんはおしまい!」という作品が、アニメ市場での立ち回り方であったり、表現の自由の規制へのアンチテーゼであったりと色々と尖っている作品であり、今の世にこの作品が放たれたからこそ、日本のアニメシーンの文脈で見ると、とても価値あるアニメーション作品であると思う、ということです。

 

 

ぐだぐだとここまでの長話に付き合っていただきありがとうございました。

これからも日本のアニメを応援していきたいですね。

 

 

では最後に。

 

 

 

 

 

 

おにまい、最高!