Atriaの気ままブログ

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自分の価値はどこにあるんだろう。「推し、燃ゆ」の読後レビュー

 皆さんこんにちは、アトリアです。

 

 今日はタイトルにもあるように、今更ながら、第164回芥川賞受賞作品である「推し、燃ゆ」を読んだので、レビューと銘打ってありますが、そんな高尚なものではなく、なんとなく感じたことを書き留めていきたいと思います。

 

推し、燃ゆ | 宇佐見りん | 日本の小説・文芸 | Kindleストア | Amazon

(出典:「推し、燃ゆ」のamazonページ)

 

 そもそも、国語の成績は在学中いつも悪かったので、感想文なんか書けません。全く見当違いな解釈などを書いている可能性があるかもしれませんが、許してください。

(その可能性があるところには(個人的解釈)と書いてあります。)

 

 筆者の考えなんかわからないんじゃ~

 

 以下、ネタバレ成分多めでお送りしますので、ご注意ください。

 

 まず「推し、燃ゆ」について。

推しが炎上した。ままならない人生を引きずり、祈るように推しを推す。そんなある日、推しがファンを殴った。

(引用元:「推し、燃ゆ」のamazonページ)

 

www.amazon.co.jp

 

 あらすじにもあるように、主人公「山下あかり」は、家庭でも学校でもバイト先でもうまくいかず、唯一の心のよりどころとしてアイドルである「上野 真幸(まさき)」を推している、という感じで物語は展開されていきます。

 

 そんな唯一のよりどころである推しが、女性を殴ったという事件によってネット上で炎上、それまでは映画などの出演により人気が上昇していたにもかかわらずファンが減少、物語の終盤では芸能界の引退を発表し、主人公は推しを追うことができなくなってしまいます。

 

 推しの状況が変化していくことで、推しを生活の中心に据えていた主人公の心情もどんどんと変化していきます。そのさまに何とも言えないリアリティがあり、直接は言及しないものの、細かい情景描写によってなんとなく心に伝わってきます。

 

こういうところで国語の勉強が生きてくるのだと痛感しました…

なんとなくしか言えないのがもどかしい。

 

 おそらく、自分に誰かしら、何かしらの「推し」というものが存在する、という人はかなり刺さる物語なのではないかと感じます。自分の中にはない「何か」(=推し)に自分の生活の中心を委ねることの危うさのようなものがなんとなく感じ取れます。(個人的解釈)

 

 自分の存在意義の話などにも通じるものですが、外部のもの(それは友達かもしれないし、恋人かもしれないし、はたまた仕事や趣味かもしれません)に自分の存在意義を見出している人はどうしても自分という基盤が緩く危ういため、どうしてもメンタルが不安定になってしまうことがあるのではないかと思います。よく、仕事を定年退職した男性が家庭や地域での立ち位置を見出すことができず、引きこもりになったり鬱になったり、などの話を聞きますが、これはまさに、昭和的な考え方に基づいて自分の価値、存在意義を仕事をすることに見出し、委ねてきたためであると考えられます。

 

 そういう視点で見れば、ネット上でよく聞く「可愛くてごめん」という楽曲(リズムがめちゃ好きでよく聞いてます)に登場する女の子は、自分自身の存在に価値を見出しており(強がりとかかもしれないけど)、自分という基盤がしっかりしているため、自分を見失うということは少ないのではないかと感じます。

 

www.youtube.com

 

 歌詞にある、

私が私の事を愛して
何が悪いの?嫉妬でしょうか?
痛いだとか変わってるとか
届きませんね。そのリプライ

(引用元:https://www.lyrical-nonsense.com/lyrics/honeyworks/kawaikute-gomen-feat-chuu-tan-saori-hayami/

であったり、

趣味の違い
変わり者と
バカにされても
曲げたくない
怖くもない
あんたらごとき
自分の味方は自分でありたい
一番大切にしてあげたい
理不尽な我慢はさせたくない
“それが私”

(引用元:https://www.lyrical-nonsense.com/lyrics/honeyworks/kawaikute-gomen-feat-chuu-tan-saori-hayami/

というところから、この女の子は自分に価値があり、自己受容している様子が見て取れます。

 

 ちなみに自己受容とは以下のような意味です。

自己受容とは、あるがままの自分を理解し認めたうえで、全てを受け入れることを指します。あるがままの自分とは、いいところも悪いところも全てひっくるめての自分のことです。自己受容する場合には、長所・短所それぞれを評価したりはせず、無条件で受け入れます。よって、自己受容する場合には、仮に現状に不満があったとしても、全てを容認し、受け入れ、認める気持ちが基本となります。

(引用元:https://www.babypark.jp/column/single15.html

 自己受容が自己肯定と異なるのは、自分の長所だけでなく、短所も含めて自分であると受け入れてあげることです。

 このような考え方を積極的に取り入れたのは、アドラー心理学でその名が広く知られているアドラーです。アドラー心理学を分かりやすく解説しているのが、話題になった本「嫌われる勇気」です。これもかなり面白い本だったので、気が向いたらブログで書きたいと思います。

 

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 ちなみに、同じく「可愛くてごめん」の歌詞の中には、アドラー心理学で重要な項目として挙げられている「課題の分離」と受け取れる歌詞が存在しています。(個人的解釈、ただ書きたかっただけ)

貴女は貴女の事だけどうぞ
私に干渉しないでください

(引用元:https://www.lyrical-nonsense.com/lyrics/honeyworks/kawaikute-gomen-feat-chuu-tan-saori-hayami/

 

 課題の分離とは、自分の課題と他者の課題を分けることです。以下のサイトに「嫌われる勇気」本文の一部が記載されているので、それを読まれるのが一番早いと思います。

 

およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと──あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること──によって引き起こされます。課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。

(引用元:https://diamond.jp/articles/-/226815

diamond.jp

 

 つまり、「可愛くてごめん」の女の子はアドラー心理学で語られていること(の一部)を(おそらく無意識に)実践していると解釈することができます。

 

 …話を戻すと、「推し、燃ゆ」の主人公は、推しのカラーである青で固めた部屋の様子や推しの過去の言動などを徹底的に調べ上げ、それをファイルにまとめるなどの行動からも、かなり推しを中心に据えて、あらすじに書いてある通り、祈るように推して生活している印象を受けます。

 

 おそらく、このような興味の偏り具合の極端さに加えて、本文で描写されている部屋の汚さ、日常生活での忘れ物の多さや居酒屋バイトの作業での困難から、主人公は自閉症スペクトラム症と注意欠陥・多動性障害(ADHD)を抱えているのではないかと予想できます。(個人的解釈)

 (本文中にも、<保健室で病院の受診を進められ、ふたつほど診断名がついた。>(引用元:宇佐見りん. 推し、燃ゆ. p.9の5行目)という文があります。)

 

www.smilenavigator.jp

www.tawara-clinic.com

 

 このような発達障害(現在は個人の一つの特性としてとらえられつつありますが、日常生活や社会生活において困難を感じていれば、それは改善するべき対象になりえます)を抱えている主人公は、この特性によって家庭内や学校での生活、アルバイトで困難を感じていることになります。

 一般的に、このような発達障害一人一人の特性を理解し、それに寄り添った周りの援助が重要であるとされています。しかし、本文の描写ではそのようなサポートが十分になされているとは考えられません。学校でも先生の言動から、発達障害への理解が足りているとは到底考えられず、両親や姉の発言も主人公の困難を本人の努力不足であると捉えており、四面楚歌の状態です。

 

 そのような状況下、主人公にとって、唯一の人生のオアシスである推しが芸能界を引退するとなったら、主人公はすべてを取り上げられた気分になることは想像に難くありません。それがp.100からの描写に現れていると思います。

 

 最後の展開では、推しの最後のライブに参加することで、推しを推し続ける生活の終わりを確信し、特定された推しのマンションを実際に見に行くことで、推しが芸能人ではなく一般人になったことを目の前にし、主人公は自分の中で推しと決別した(というよりは決別する覚悟を決めた)と解釈できます。

 

最後の1ページの描写が個人的には一番刺さりました。

 

 主人公は推しという中心を失ったことで自分自身と向き合い、自分の価値を外部ではなく内部に求めるしかないことを悟ります。アドラー心理学の言い方をすれば、自己受容することによって(ここの描写は自己受容なんてそんな前向きな感じではありませんが…)、自分らしく、不器用であっても、難なく二足歩行ができる他人とは異なる四足歩行であっても、自分らしく生きるしかない…一種の諦めのような形で物語が幕を閉じます。

 

 自分を受け入れられるように努力していこうという前向きな感じではなく、もう自分は自分でしかないんだから、受け入れていくしかないじゃん…というような諦め、とことん後ろ向きで物語を締めたのはかなり衝撃的でした。

 

 自らを殺めるでもなく、努力して改善していこうとするとかでもなく、自分を受け入れる諦め、という展開により、読み終わった時には、(言い方が悪いですが)生き地獄に放り込まれたような感覚でした。

 

なるほど、この作品はすごいです。(語彙力)

 

 …そんな形で物語は幕を閉じ、読後に残るのは何とも言えない、やりきれなさのような、救われなさのような、そんな気持ちだけが残りました。

 

 この作品は、現代の我々の危うさをかなり生々しく描いた物語のように私は感じました。最初読んだときは、「んー、なんか鉛玉をいきなりぶつけられた気分だけど、なんでかはよくわからんなー、やっぱ芥川賞取る作品なだけあって難しいなあ(アホの感想)」という感じだったんですが、この記事を書きながら改めて考えながら読み直してたら上記のようになりました。あー(白目)

 

 とりあえず、いろんな意味ですごい作品でした。最近読んだ作品では断トツで胸に残りました…

 

 

 

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

他にもいろいろ書いてるのでよかったら読んでいってください。

 

またね~

 

 

 

 

 

 

 

 …ちなみに、読むきっかけになったのは表紙のダイスケリチャードさんの表紙イラストが目に留まったからです。(三月のパンタシアが好きでよく聞いているのですが、アルバムなどのイラストを同氏が手掛けているようです。それで、「あれ、このイラスト見たことあるぞ?」ってなりました。「推し、燃ゆ」の表紙書いてるの全然知らなかった。)

suzuri.jp

www.phantasia.jp